徳川家康(17)

天正十八年八月一日、深謀遠慮の結果ついに家康は江戸城に入った。
が城とは名ばかりのあばら屋で、町は野盗・浪人の巣窟であった。
国内を平定した秀吉は翌年十九年、肥前名護屋に本営を築き、無謀ともいえる大軍を朝鮮に出兵したが、戦勢は日増に不利となった。
関白の位を譲られた甥の秀次には粗暴の振る舞いが多く、高野山にて自刃。
待望の実子秀頼が生まれたものの、既に秀吉には「浪花のことは夢の又夢」であった。
前田利家の死は豊臣家にとって大きな損失であった。
石田三成の陰謀を粉砕しようと決意した家康は、群党乱立の政情を収めるため、会津の上杉景勝の討伐に赴く。
この間に三成は毛利、宇喜田らを語らって伏見城を攻撃、時に慶長五年九月十五日、家康は七万の軍勢を率いて、三成ら西軍十万八千の大軍と関ヶ原に対決、天下分け目の大決戦の幕はここに切って落とされた。
関ヶ原の合戦は家康の地位を不動のものとした。
三百年の泰平の基礎を築き、更にその政策を海外へ広めんとする家康の念願。
だが全国の切支丹大名の間に反徳川の計略が画策され、大坂方の不穏な動きが嵐を呼ぶ…… 一代の寵臣大久保長安の死を契機に発見された連判状から、家康の六男忠輝と伊達政宗、切支丹大名をめぐる陰謀が発覚。
家康の怒りと痛恨は頂点に達した……。
大坂城をめぐる不穏の動きは、日増に激しさをましてくる。
なんとかして豊臣家を存続させたいと願う家康だが、秀頼母子が大坂城にある限り、牢人や切支丹信徒の不平分子が、秀頼を擁して大騒乱をひきおこす恐れがある。
すでに真田幸村が大坂と連絡をとっている。
事態は一刻も放っておけない。
その時、太閤の十七回忌を前にして、方広寺の鐘銘事件がもちあがる……。
慶長十九年の冬、大坂方は城の外に柵などを造って、関東方の大坂攻めに備えた。
だが家康は二条城にあって一向に動こうとしなかった。
太閤との昔からの誼で何としても戦だけは避けたい心情であった。
その家康の心中をよそに、冬の陣の火蓋は切って落とされた。
関東方のしつらえた大砲の威嚇によって一旦和議が成立したかに見えたが、それも束の間、時の勢いは夏の陣へと……。
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